運命的な出会い

日本人会 副会長
鈴木 康次郎
 人は、必ずと言って良いほど、人生に1度か2度ぐらいは、これは、何らかの「運命的な出会い」ではなかろうかと、感じたことがあるに違いない。
 例えば、この場所には、なぜか無性に惹きつけられてしまうとか。例えば、この人とは、どういう訳か何度もあちこちで出会ってしまうとか。例えば、この恩師(あるいはこの先輩)に出逢わなければ、その後の人生は全く違ったものになっていたとか。
 そのような時、何か運命的なものを感じたことはないだろうか。中には、たった1度だけの出会いで、ガツーンと来てしまい、そのまま結婚へ真っしぐらなどと言うケースも聞いたことがある。正に、これこそ「運命的な出会い」なのであろう。正直に言えば、そこまでかどうかは解らないが、自分にもそのような「運命的な出会い」があったのである‥多分…。
 自分が、カンボジアへ初めて訪れたのは、36歳の頃、1994年。確かUNTACが、引き上げた直後だったように記憶している。新政権も成立直後だった筈である。自分は、政府ミッションの一員として派遣されていた。しかしながら、新政権との交渉は難航を極め、また関係各方面からの批判も厳しく、八方塞がりの状況にあった。当時、ミッションの団長として来ていたのは、上司である部長であった。しかし、何ら進展もみられず、忸怩たる思いを噛み締めながら日々の交渉に臨んでいたようである。
 そんなある日、 お世辞にも綺麗とは言えない、古ぼけたプノンペンの街並みを眺めながら、思わずこんなことを自分は上司に向かって呟やいてしまった。
「今回の経験を踏まえて思うんですが、確かに先方にも問題はありますが、こちらももっとオールジャパンの体制で、あらゆる援助スキームを駆使して、より開発戦略に基づいた協力を一元的に実施できるようにすべきではありませんか。もしそのような実施体制ができたら、自分としては、ぜひここに来て陣頭指揮をとってみたいです。きっとやり甲斐があるでしょうね。」
 明らかに、若気の至りであった。当時、それが如何に絶望的なぐらい非現実的なことであるかぐらいは、自分にもわかっていた。上司は、暫くじっと遠くを見つめたまま無言であった。その沈黙が居たたまれないほどだった。ようやく、何かを決心したように最後にポツリと彼は言った。
「‥そうだよな……。」
 それから、14年後、2つの援助機関は統合し、我が国の援助方針に基づき、あらゆる援助スキームを駆使して協力ができる統合された実施機関が誕生した。なんと自分は、2009年、その現場のトップとして、カンボジアへ派遣され、現場の陣頭指揮をとっている。もちろん、自分の力不足を日々反省しながらも、充実した日々を過ごさせてもらっている。
 振り返れば、あの時想い描いたような仕事を実際にできるような時が本当に来るとは、当時の自分でさえ全く想像していなかった。
 もちろん、制度的には、まだまだ完璧とは言えないながらも、援助に関しては、オールジャパン体制がほぼ実現したと言える。しかも、今では、「官民連携」と言うことで、援助を越えた更なるオールジャパン体制が作られ、民間活力と連携さえできるようになった。
 確かに、時代はどんどん動いている。
 当時の「若気の至り」であった言葉を思い出す度に、何らかの「運命的な出会い」をカンボジアには感じてしまうのである。
 今、援助実施機関の現場のトップとして想い描くのは、これから20年、50年後のカンボジアの国造りをイメージしつつ、当面5年、10年後にカンボジア人が何を達成すべきかを見極め、カンボジアの人々と協力しながら、一つづつ一緒に達成していくことである。日本人である我々は、これまで同様に、できるだけカンボジアの人々に寄り添いながら、一緒に汗をかいていきたいと思う。
 カンボジアには課題は山ほどあるが、最も重要なのは、「人材育成」であると考えている。しかも、エンジニアやテクニシャンという産業人材の育成が、急務である。なぜならば、国造りには、あらゆる分野での多くの技術者が必要とされるからである。そのような「人造り」への協力を通じながら、心を通わせつつ、「国造り」を支援していくことが、今は、自分の「運命」のようにも感じている。

 我々がやっているのは、正に「人造り、国造り、心のふれあい」なのである。